東アジア思想・哲学研究教育プログラム
招聘研究者

林 永強 / lam wingkeung

経歴
2004 年香港科学技術大学 人文学部 博士課程(博士号)
2006 年~香港教育学院 宗教教育及びスピリチュアルティ教育センター 助教授

研究テーマ
善と道徳―西田幾多郎と牟宗三

十九世紀中旬から西洋のphilosophia という言葉や概念が日本や中国に輸入し、
「哲学」という語で西周に翻訳された。
その翻訳により、言葉の意味のみならず、その理解も西洋とは異なる。
日本や中国においては、「哲学」は西洋のように「普遍的、客観的な知識」という定義ではなく、
「生命の学問」として理解される。


「学問」と言えば、言うまでもなく西洋哲学と同じく、厳密的な論理を目指そうとするが、
近代日本や中国哲学においては、論理の対象として「生命」という同調がある。
それは生の哲学、生命論のような各々の哲学的課題を意味するのではなく、
哲学そのものと認識される。
特に京都学派の創始者である西田幾多郎(1870-1945)
新儒家の代表である牟宗三(1909-1995)は、
「生命の学問」により「哲学」の定義と主唱する。

そのような「哲学」の定義により、西田や牟は善と道徳を注目し、
それぞれの独自的な論理を創造しようとする。

西田の場合、今までの研究は実在、宗教、歴史など無数な課題を注目したが、
一冊の本として上梓した処女作である『善の研究』に対しては、
第三編の「善」という主題は意外にも多くの論考がない。
確かに西田自身は論理を構造しようと試みながら、倫理学における「善」ではなく、
「場所」ということであるが、両者は無関係ではない。

牟の場合、中国哲学があるのかと問う際、
カントと相違し、宗教的に神に基づき、道徳を成立してはいないと強調する。
カントの場合、「形而上学」という言葉は、道徳に重点を置いてあり、
存在の問題を及んでいないが、儒教には、単に当為を講じるだけではなく、
存在の問題をも触れていると牟氏は明言する。
それは、「道徳な形而上学」である、という。

本研究は生命の学問としての哲学という視点から、
西田の善と牟の道徳とは、どのような哲学的意味や意義があるのか、
そして善と道徳とを比較しながら、日本と中国との「倫理学」を樹立できるのか。
また、日中の「倫理学」であるならば、どのような特徴があるのかと検討しておきたい。

従って、西洋から東洋への哲学の軌跡を鳥瞰しながら、
哲学の定義の相違点により、生命と密着する実践的行為にある「倫理」、
また「倫理学」を究明したい。それはただ一つの哲学的分野ではなく、
哲学そのものと分裂できないのであろうかと判明してみたい。
とりわけ、禅仏教の論理に基づく独自的哲学を創造したと言われる西田、
また西洋文化の脅威の中に、中国文化の一つの柱である儒教を復活させようとする牟の
「哲学」における「善」と「道徳」を探求したい。
そのような趣旨は、両者における日中の「倫理学」を構築しようとするのではなく、
両者の「倫理学」を研究しながら、
西洋から東洋へのインターダイアローグやアジアにおけるイントラダイアローグを通じ、
哲学そのものへの追跡である。

周知のように、西田は学習院大学にて一年間程教鞭を執られたことがあり、
沢山の研究資料が残っている。学習院大学東洋文化研究所に滞在する間に、
それらを調査する一方で、他方では日本哲学や中国哲学の専門家たちと交流したい。
また、研究成果としては、ゼミとしたい。